## はじめに
「魚が減っているのに、なぜ獲り続けるのか」「科学者が警告しているのに、なぜ漁獲枠は変わらないのか」――水産資源管理のニュースを追っていると、こうした疑問にたびたび行き当たる。
日本のサンマやスルメイカは記録的な不漁が続き、資源評価の専門家からは厳しい規制を求める声が上がる。一方で、現場の漁業者や地域漁協は「昔からこうやってきた」「急に変えれば生活が立たない」という理由で、科学的な勧告と異なる落としどころに行き着くことが少なくない。
この構図を見ると、「水産資源管理は証拠に基づくファクトよりも、地域の慣習を優先している」という印象を持つのは、決して不自然なことではない。本記事では、まずこの印象がどの程度データや制度の実態に裏付けられているのかを確認し、次に、なぜそうした構造が生まれるのかを掘り下げる。そして最後に、「科学 vs 慣習」という単純な二項対立では見落とされがちな、もう一つの重要な論点――地域の慣習そのものが持つ「知」としての価値――にも目を向けたい。
## 1. 制度としての「科学的管理」はどうなっているか
日本の漁獲量管理の中心にあるのが、TAC(Total Allowable Catch、漁獲可能量)制度である。1996年に国連海洋法条約の批准を受けて制定された「海洋生物資源の保存及び管理に関する法律」(TAC法)に基づき、資源量や漁獲動向のデータが集積された魚種を対象に、年間の漁獲量の上限が定められる仕組みだ。現在はサンマ、スケトウダラ、マアジ、マイワシ、サバ類、スルメイカ、ズワイガニ、クロマグロの8魚種が対象となっている。
制度の建て付け自体は、科学的な資源評価を起点にしている。水産研究・教育機構などの専門機関が算出する「生物学的許容漁獲量」(ABC: Allowable Biological Catch)が土台になり、そこから実際のTACが決定される流れだ。
ところが、ここに最初のねじれがある。TACはABCを「ベースとしつつ」、漁業者の経営状況など他の要素も加味して毎年改定される、という制度設計になっている。つまり、科学的勧告(ABC)と実際の漁獲枠(TAC)は、最初から一致することを前提とした制度ではない。科学的な数値はあくまで出発点であり、そこに政策的・経営的な調整が加わることが、制度上はじめから組み込まれているのだ。
2018年の漁業法改正では、TACによる管理を基本とする新たな資源管理制度への転換が図られ、TAC対象魚種を漁獲量全体の8割程度まで拡大する方針が示された。これは「科学的管理を強化する」方向への明確な政策転換であり、行政側が問題意識を持っていることの表れでもある。
## 2. データで見る「科学」と「現場」のズレ
このズレは、数字としても表れている。日本のサバについて、過去10年間(2010〜2019年)のTAC消化率(実際にTACのうちどれだけ漁獲されたか)は平均で6割程度にとどまっているという指摘がある。一方、同時期のノルウェーのサバ漁では、TACと実際の漁獲量がほぼ一致する状態が続いている。
消化率が低いこと自体は、必ずしも「資源管理がうまくいっていない」ことを意味しない。むしろ、漁獲枠を使い切らないのは資源に優しい結果にも見える。しかし問題の本質は別の場所にある。日本のTACは、しばしば実際に漁獲可能な量よりも大きく設定される傾向があり、結果として「枠が緩く、獲ろうと思えばもっと獲れる状態」が続いているという見方だ。これに対しノルウェーでは、科学的根拠に基づいて、持続可能な水準よりもさらに余裕を持った、意図的に小さい漁獲枠が設定されている。つまり「枠の消化率が低い」という同じような現象でも、その背景にある制度の厳格さはまったく異なるということになる。
加入量(その年に新たに資源に加わる魚の量)の急変に対応するための新しいルール作りが現在進行形で議論されているように、資源評価とTACの運用を一致させる努力自体は続けられている。しかし、その調整には毎年のステークホルダー会合を経た政治的な合意形成が必要であり、科学的な数値がそのまま反映されるわけではない構造は変わっていない。
## 3. 具体例で見る――クロマグロ管理の軋轢
抽象的な議論だけでは実感しにくいので、具体的な魚種を一つ取り上げてみたい。太平洋クロマグロは、近年の資源管理の中でも特に議論が激しい魚種の一つだ。
クロマグロの管理は、中西部太平洋まぐろ類委員会(WCPFC)という国際機関が決定する管理措置に基づいている。北太平洋まぐろ類国際科学委員会(ISC)による資源評価を土台に、国際的な漁獲上限が設定され、それが国内の漁業者、さらには遊漁(レジャーとしての釣り)にまで及ぶ厳格な数量管理として下りてくる構造だ。小型魚(30kg未満)は原則採捕禁止、大型魚も月ごとの数量や1人1ヶ月1匹までといった細かい制限が課されている。
この管理が現場で軋轢を生む典型的な場面が、定置網漁業だ。定置網はクロマグロを狙って漁をしているわけではなく、他の魚種を獲る過程でクロマグロが混獲されてしまう。資源管理のために漁獲上限を守らなければならない一方、混獲を完全にゼロにすることは技術的に難しく、上限に達した漁業者は他の魚種の漁を含めて休漁せざるを得なくなる。国はこうした漁業者に対し、混獲回避(放流)の取組や、休漁による減収を緩和する支援策を講じているが、これは裏を返せば、科学的根拠に基づく国際的な管理措置が、現場の漁業実態とそのままでは噛み合わないことを行政自身が認めているということでもある。
一方で、資源状況自体は改善の兆しを見せている。WCPFCの年次会合では、大型魚の漁獲上限を従来の1.5倍に増やすことが合意されるなど、資源の回復を踏まえた規制緩和も段階的に進められている。これは、科学的評価が「悪化」と「回復」の両方を捉え、それに応じて規制の強さが上下するという、本来あるべき姿が機能している例とも言える。
ただし、規制緩和のペースや配分(全国枠のうちどれだけを漁業に、どれだけを遊漁に割くか)を巡っては、新潟県のように都道府県ごとに漁協間で独自の資源管理協定や個別割当を結んで調整するなど、国際的な数量管理という「科学のレイヤー」と、地域ごとの実情に応じた配分という「慣習・調整のレイヤー」が、重なり合いながら運用されている実態がうかがえる。クロマグロのケースは、科学的管理と地域の調整が対立一方ではなく、入れ子構造になって共存している例として読むことができる。
## 4. なぜ「慣習」が優先されやすいのか――構造的な要因
ここからは、なぜこうした構造が生まれるのかを、いくつかの要因に分けて考えてみたい。
### (1) 漁業権という制度そのものが「地域」を単位にしている
日本の漁業制度は、明治期からの歴史的経緯もあって、地域の漁業協同組合(漁協)が漁業権を管理する仕組みを核としている。これは単なる慣習ではなく、漁業法という法律に裏付けられた正式な制度だ。つまり「地域の慣習が科学を上回る」という現象は、しばしば違法な抜け道ではなく、制度が最初から地域単位の自治を前提に設計されていることの結果である。
### (2) 政策決定のコストは「今」発生し、資源の悪化は「将来」訪れる
漁獲規制を強化すれば、漁業者の収入は今すぐ減る。一方、規制を緩めたことによる資源の悪化は、数年後、場合によっては10年以上先になって表面化する。政治的な意思決定において、目に見える短期的コスト(漁業者の生活、地域経済、選挙区への影響)は、見えにくい長期的コスト(将来の資源枯渇)よりも常に重く扱われやすい。これは水産資源管理に限らず、気候変動対策や財政規律など、多くの政策領域に共通する非対称性だ。
### (3) 科学的勧告そのものに不確実性が伴う
「科学的根拠」と言っても、それは万能の確定値ではない。資源評価は、漁獲データ、海洋環境データ、年齢構成の推定など複数の前提に基づくモデルの出力であり、前提が変われば数値も変わる。先述したカタクチイワシの例のように、資源が急に増える「高加入期」への移行を評価モデルが追いきれず、TACが実態より小さいままになってしまうケースも報告されている。つまり現場の漁業者が「データは実態と合っていない」と感じる場面が実際に存在し、それが慣習的な判断への信頼を強める一因にもなっている。
### (4) 合意形成のプロセス自体に時間がかかる
TACの改定は、資源管理方針に関する検討会やステークホルダー会合といった手続きを経て行われる。これは民主的な手続きとして必要なプロセスだが、科学的評価が示してから実際の規制に反映されるまでにタイムラグが生じる構造でもある。緊急に対応すべき資源悪化があっても、制度上、即座に大幅な規制強化に踏み切ることは難しい。
## 5. もう一つの視点――「慣習」は本当に科学の劣化版なのか
ここまでは、「科学的根拠が政治的・構造的な理由で歪められている」という前提で論じてきた。しかし、この前提自体を問い直す研究の系譜があることにも触れておく必要がある。
2009年にノーベル経済学賞を受賞した政治学者エリノア・オストロムは、共有資源(コモンズ)の管理について、それまで主流だった「国家による規制」か「市場による私有化」かという二択に異議を唱えた。彼女は、地域住民による自治的な管理が、外部から課されたトップダウンの規制よりも持続的に機能した事例を多数分析し、自治管理がうまく機能するための8つの設計原理を提示している。コモンズの境界が明確であること、ルールが地域の実情と調和していること、当事者がルール作りに参加できること、違反の監視が機能していることなどがその柱だ。
オストロムの議論の核心は、ギャレット・ハーディンが提唱した「コモンズの悲劇」――共有資源は必然的に乱用され枯渇する、という見方――が、必ずしも普遍的な法則ではないという点にある。むしろ、資源を実際に使い、その変化を日々観察している当事者たちが作るルールは、抽象的なモデルに基づく規制よりも実態に即していることがある、というのが彼女の指摘だ。
これを水産資源管理に当てはめれば、地域の漁協が世代を超えて積み重ねてきた漁場の使い方や休漁の慣習は、単なる「科学を軽視した既得権益の主張」ではなく、長期的な観察に基づく経験的知識(伝統的生態知識、TEK: Traditional Ecological Knowledge)としての側面を持つ、という見方が成立する。実際、日本の水産資源管理政策を論じる研究の中にも、過度に抽象化されたモデルだけで政策を決定することの危うさを指摘し、自主的な管理の実効性を評価する立場がある。
この視点に立つと、「科学的根拠 vs 地域の慣習」という対立軸自体が、やや単純化されすぎているとも言える。優れた資源評価モデルであっても、現場の細かな海況変化や漁場ごとの差異をすべて捉えきれるわけではない。逆に、地域の慣習だけに頼れば、広域を回遊する魚種の資源全体や、漁協の枠を超えた乱獲には対応できない。両者は競合する選択肢ではなく、本来は補完しあうべき情報源なのだ。
## 6. 海外事例から見えてくること――ノルウェーの成功と、その限界
「科学的根拠に基づく管理」の代表例としてしばしば引用されるのが、ノルウェーの漁業管理である。ノルウェーでは、サバやニシンなどを漁獲する大型まき網漁船に対し、国際海洋探査委員会(ICES)による科学的勧告に基づいた漁獲枠が、漁船ごとに個別に割り当てられる「漁船別個別割当」(IVQ: Individual Vessel Quota)という制度が運用されている。漁獲枠は実際に漁獲可能な量よりもかなり少なく設定されており、結果として資源は維持され、漁業自体も高い収益性を保っている。
この成功は、しばしば「科学的根拠を厳格に適用すれば資源管理はうまくいく」という教訓として語られる。これは間違いではないが、注意すべき点もある。第一に、ノルウェーの制度は単に「科学に従っている」だけでなく、減船による構造調整、漁船の大型化、輸出市場の開拓といった複合的な政策パッケージの一部として機能している。第二に、ノルウェーの漁業管理も完璧ではなく、大規模漁業と沿岸の小規模漁業との間で、漁獲枠の配分を巡る対立が今も続いている。北部の漁業コミュニティでは、個別割当制度の導入によって過疎化が進んだという不満が根強く、2024年時点でも政策の見直しが議論されている。
つまり、ノルウェーの事例から学べるのは「科学を優先すれば自動的にうまくいく」という単純な話ではなく、「科学的根拠を制度の土台に置きながら、配分の公平性や地域経済への影響をどう調整するかという、別の難しい問題が必ず残る」という事実である。科学的根拠を重視する制度であっても、結局は「誰が、どれだけ獲る権利を持つか」という分配の問題、つまり社会的・政治的な調整からは逃れられない。
## 7. それでも「エビデンス重視」を出発点にすべき理由
ここまで、慣習や地域の自治にも一定の合理性があることを見てきた。それでも、筆者としては、資源評価という科学的なプロセスを管理の出発点に据えるべきだと考える理由がある。
第一に、地域の経験知が機能するのは、資源の変動が比較的緩やかで、その地域だけで完結する漁場の場合に限られやすい。サンマやサバのように広域を回遊し、海洋環境の変化(水温上昇など)によって分布が大きく変わる魚種では、一つの地域の経験則だけでは全体の資源動向を捉えられない。こうした魚種こそ、科学的なモニタリングが不可欠になる。
第二に、「慣習が資源を守ってきた」という主張が成立するのは、その慣習が実際に持続可能性を保ってきた歴史的な実績があるケースに限られる。慣習だからといって自動的に正当化されるわけではなく、その慣習が今の資源状況に見合っているかどうかは、やはりデータで検証する必要がある。オストロムの議論も、地域自治を無条件に擁護したわけではなく、その自治が持続可能であるための条件(境界の明確さ、監視の実効性など)を厳密に分析した点に意義がある。
第三に、科学的評価の不確実性は、「科学を無視してよい理由」にはならず、「不確実性を踏まえた上で、慎重な側に倒した判断をする理由」になるべきだという考え方がある。資源評価が外れるリスクがあるなら、その分余裕を持った保守的な漁獲枠を設定する、というのがノルウェーのアプローチであり、これは科学への不信ではなく、科学的な不確実性そのものへの誠実な対応と言える。
## 8. 慣習と科学を統合するために、何ができるか
対立を乗り越えるための方向性として、以下のような取り組みが考えられる。
データの透明化と早期共有**
資源評価のプロセスや前提をできるだけ早く、わかりやすく現場に共有することで、「データが実態と合っていない」という不信感そのものを減らす。カタクチイワシの例で見たような、評価モデルの限界を補う新ルールの検討は、その一歩と言える。
当事者参加型の資源評価**
漁業者が持つ日々の観察情報(その年の魚の大きさ、回遊のタイミングなど)を、科学的な資源評価のプロセスに正式なデータとして組み込む仕組み。これは「慣習を聞き置く」のではなく、慣習の中にある観察知を科学のプロセスに統合する試みになる。
保守的な漁獲枠設定の制度化**
ノルウェーのように、資源評価の不確実性をあらかじめ織り込み、実際に獲れる量より少ない枠を恒常的に設定する。これにより、毎年の政治的な調整圧力が、資源そのものを直接脅かすところまで及びにくくなる。
配分の公平性を正面から議論する**
「科学的根拠に基づく規制」が政治的に骨抜きにされる最大の理由は、規制強化のコストが特定の漁業者や地域に偏って降りかかることにある。規制を強化する際に、誰がそのコストを負担するのかという分配の問題を、資源評価の議論と分けて、正面から扱う必要がある。
## おわりに
水産資源管理が「証拠より慣習を優先しているように見える」という印象は、データの面でも制度の面でも、相当の根拠がある。TACという科学に基づくはずの制度自体が、漁業者の経営状況を加味して調整される設計になっており、結果として科学的勧告と実際の規制との間に常にギャップが生まれる構造になっている。
しかし、この構造を「科学の軽視」という言葉だけで切ってしまうと、見えなくなるものもある。地域の慣習には、世代を超えた観察に基づく経験知という側面があり、それ自体が一種のエビデンスでもある。問題は「科学か慣習か」ではなく、「科学的な不確実性とどう向き合い、それでも生活がかかっている人々の合意をどう形成するか」という、もっと地味で時間のかかる制度設計の問題なのだろう。
ノルウェーの事例が示すように、科学を重視する制度を作ったとしても、配分や公平性をめぐる対立は決してなくならない。むしろ、それこそが資源管理の本質的な難しさなのだと言える。