現代人は、いつも何かに追われている。
時計に追われる。締切に追われる。売上に追われる。フォロワー数に追われる。再生回数に追われる。評価に追われる。
かつて農村社会では、人間は自然の時間の中で生きていた。もちろん苦労はあった。しかし春に種を蒔き、夏に育て、秋に収穫し、冬に備えるという循環の中で暮らしていた。
ところが近代資本主義は、人間を自然の時間から切り離した。
時間は「お金」になった。
労働時間は賃金として計算されるようになった。
一分の遅れは損失になった。
効率が善になった。
数字が正義になった。
こうして人間は時計の奴隷になっていった。
社会学者のマックス・ウェーバーは近代社会を「鉄の檻」と表現した。
合理化によって社会は便利になった。
しかし同時に人間は合理性の檻の中に閉じ込められた。
本来は人間のために作られた仕組みが、逆に人間を支配するようになったのである。
## なぜ資本主義はスケールを求めるのか
資本主義の根本原理は拡大である。
利益を出す。
利益を再投資する。
さらに大きくなる。
さらに利益を出す。
この循環が続く。
小さなパン屋が繁盛すると二号店を出す。
二号店が成功すると三号店を出す。
地域チェーンになる。
全国チェーンになる。
上場企業になる。
これは資本主義において自然な流れである。
なぜなら資本は増殖を求めるからだ。
しかしここに落とし穴がある。
事業が大きくなるほど、人間は数字を見るようになる。
売上。
利益率。
来客数。
市場シェア。
PV数。
フォロワー数。
数字は便利だ。
数字は客観的だ。
数字は比較しやすい。
だが数字だけを見始めると、人間は目的を忘れる。
何のために店を始めたのか。
何のために働くのか。
何のために生きるのか。
数字は答えてくれない。
## スケールの論理が地域を壊す
地方創生でも同じことが起きる。
「観光客を何万人増やす」
「売上を何億円増やす」
「人口流出を何%減らす」
もちろん重要な指標である。
しかし数字だけを見ると、本質を見失う。
例えば宮古市に百万人の観光客が来たとしても、市民が疲弊していたら意味がない。
地元商店が消えていたら意味がない。
若者が誇りを持てなかったら意味がない。
数字は成果の一部であって、目的そのものではない。
近年、多くの地域で「稼げる地域づくり」が語られる。
それ自体は間違っていない。
むしろ人口減少社会では必要な発想だ。
しかし稼ぐことが目的になると危険である。
本来は人間が幸せになるために経済がある。
経済のために人間が存在するわけではない。
## 「遅いインターネット」が問いかけたもの
評論家の宇野常寛は『遅いインターネット』で、現代社会が「反応の速度」に支配されていると指摘した。
SNSでは即座に反応しなければならない。
ニュースは次々と流れる。
炎上が起きる。
誰も考える時間を持てない。
速さが価値になる。
しかし本当に重要なことは遅い。
友情も遅い。
恋愛も遅い。
教育も遅い。
文化も遅い。
地域づくりも遅い。
子どもが大人になるまで二十年かかる。
森が育つまで五十年かかる。
地域文化は百年単位で形成される。
にもかかわらず現代社会は四半期決算や再生回数で評価する。
これでは人間の時間と社会の時間がずれてしまう。
## 正気を取り戻す空間
だからこそ現代社会には「正気を取り戻す空間」が必要になる。
それは必ずしも大きな施設ではない。
海を見ながらコーヒーを飲める場所かもしれない。
本屋かもしれない。
小さな居酒屋かもしれない。
畑かもしれない。
焚き火かもしれない。
あるいは仲間と語り合うだけの場所かもしれない。
そこでは数字が支配しない。
売上ではなく会話がある。
効率ではなく関係性がある。
競争ではなく共感がある。
近代社会は合理性を極限まで発達させた。
しかし人間は合理性だけでは生きられない。
人間には無駄が必要だ。
寄り道が必要だ。
遊びが必要だ。
余白が必要だ。
それらは資本主義の観点から見ると非効率かもしれない。
しかし人生にとっては本質的である。
## 「わがまま」を貫くということ
ここでいう「わがまま」とは自己中心的という意味ではない。
自分の内側から湧き上がる声に従うことである。
何が好きなのか。
何を美しいと思うのか。
何に怒るのか。
何に感動するのか。
それを見失わないことである。
哲学者のフリードリヒ・ニーチェは、人間は群衆の価値観に流されやすいと指摘した。
皆が正しいと言うから正しい。
皆が欲しがるから欲しい。
皆が評価するから価値がある。
そう考え始めると、自分自身の人生を失う。
主体性とは、自分で価値を決めることだ。
だから本当に主体的な人間は、少しわがままである。
世間の期待よりも、自分の信念を優先する。
流行よりも自分の美意識を優先する。
多数派よりも自分の良心を優先する。
それは勇気のいることだ。
孤独にもなる。
しかしそこに自由がある。
## 地方から始まる新しい豊かさ
人口減少時代の地方には、実は大きな可能性がある。
東京のようなスケール競争で勝つ必要がない。
世界最大を目指さなくてもいい。
日本一を目指さなくてもいい。
むしろ小さいからこそ、人間らしい空間を作れる。
宮古市であれば、海がある。
山がある。
人の顔が見える。
祭りがある。
歴史がある。
それらは巨大資本には作れない価値である。
これからの地方創生は、単なるスケール競争ではない。
「どれだけ大きいか」ではなく、「どれだけ自分たちらしいか」が問われる。
数字を否定する必要はない。
経済も必要だ。
利益も必要だ。
しかし数字は人生の主人ではなく道具である。
道具に人生を支配されてはいけない。
## 終わりに
資本主義は豊かさを生み出した。
その功績は否定できない。
しかし同時に、人間を時間と数字の奴隷にする危険も抱えている。
スケールを追求し続ければ、やがて何のために生きているのか分からなくなる。
だからこそ現代人には、正気を取り戻す場所が必要だ。
そして自分自身の「わがまま」を大切にする勇気が必要だ。
本当に豊かな人生とは、誰かが決めた成功を追いかけることではない。
自分自身の時間を生きることである。
数字にならない価値を守ることである。
そして、自分の心の声に耳を傾けながら、「私はこう生きたい」と言えることである。
その主体性こそが、資本主義の奔流の中で人間が人間であり続けるための最後の砦なのかもしれない。