Miyako Citizen Times

宮古民友社の主幹・鳥居弘さんが高齢のため勇退された。宮古民友の記事には鳥居さんの記者としての鋭い洞察や、郷土唯一の新聞としての矜持などさまざまなものを感じ取ることができた。コラム「波濤」に込められたメタファーとしての意味を考えれば、宮古高校は第三応援歌の練習を復活すべきなのでは?と考える。筆者は元宮古市議会議員である。これから大きな変化の時代が来ることは宮古市議会の総意であると理解する。あらゆる困難が行く手を阻もうとする。そんな状況で強い意志をもって、こう高らかに歌いたいものだ。万里の波濤を乗り切らん!

「日本の市議会議員も落ちるところまで落ちた」のか ―― 炎上型政治、地方議会、そして民主主義の品位について

SNSを見ていると、ときどき強烈な言葉が目に飛び込んでくる。

「日本の市議会議員も落ちるところまで落ちた。」

「こんな発言が翻訳されて世界に拡散されたら、日本の政治文化そのものが疑われる。」

「中国共産党のプロパガンダに利用されるだけだ。」

近年、過激な発言や挑発的なパフォーマンスで注目を集める政治活動家や地方議員が増えたことで、こうした危機感を抱く人は少なくない。特にSNS時代では、地方の一議員の発言であっても、一瞬で全国へ、さらには海外へと広がる。短い動画や切り抜きは文脈を失い、「日本の政治家はこういうことを言っている」という印象だけが独り歩きする。

そして人々は不安になる。

「これで本当に大丈夫なのか。」

「地方議会の品位はどこへ行ったのか。」

「民主主義はこんな見世物になってしまったのか。」

こうした感情は決して理解不能なものではない。むしろ、政治に一定の期待を持っている人ほど、強い失望を覚えるだろう。

だが同時に、この問題は単純ではない。

「下品だから排除する。」
「不快だから黙らせる。」
「国益を損なうから封じる。」

そうした方向へ議論が進み始めた瞬間、民主主義は別の危険を抱え始める。

なぜなら民主主義とは、本来「自分が嫌いな言論とも共存しなければならない制度」だからだ。

ここには非常に苦しい矛盾がある。

政治の品位を守りたい。しかし、品位を守るために言論を抑圧し始めれば、それは別の意味で民主主義を傷つける。

この難しさを無視したまま、「けしからん」で終わらせると、問題の本質は見えなくなる。

本当に考えるべきなのは、「炎上型政治家が存在すること」そのものよりも、なぜ彼らが一定の支持を集めるのか、そして地方議会や既存政治は何を失ってきたのか、という点なのである。

## SNS時代の政治は「視聴率競争」になった

かつて政治家は、地元を歩き、後援会を回り、議会で質問し、地道に支持を積み上げていった。

もちろん昔からパフォーマンス型の政治家は存在した。しかし、現在ほど「注目経済」が極端ではなかった。

今は違う。

SNSでは「過激であること」が圧倒的に有利だ。

静かな議論は伸びない。

丁寧な政策説明も伸びない。

だが、怒鳴る動画は伸びる。

対立は伸びる。

挑発は伸びる。

敵味方を単純化した言葉は伸びる。

なぜならSNSのアルゴリズムは、「感情が強く動くもの」を優先的に拡散するからである。

怒り。
恐怖。
嘲笑。
興奮。

これらは極めて強い拡散力を持つ。

すると政治の世界でも、「政策を考える人」より「注目を集める人」が有利になり始める。

本来、地方議会とは極めて地味な場所である。

水道管の更新。
道路補修。
介護。
福祉。
漁港整備。
人口減少対策。
防災。
学校運営。

地方政治とは、生活の維持管理そのものだ。

そこには派手さは少ない。

だがSNS時代になると、その「地味さ」が弱点になる。

地道に予算査定をしても動画は伸びない。

委員会で制度設計を議論してもバズらない。

しかし、過激な一言は数十万回再生される。

つまり政治が「行政能力競争」から「注目獲得競争」へ変質し始めているのである。

これは地方議会にとって非常に危険な変化だ。

## 「議員としての能力」と「SNS能力」は別物である

現代では、ときどき混同が起きる。

再生数が多い人は有能なのか。

フォロワー数が多い人は政治力があるのか。

炎上できる人は行政能力が高いのか。

実際には、これらはまったく別問題である。

地方自治体の運営には、非常に細かな調整能力が必要になる。

国との折衝。
県との連携。
予算配分。
地域住民との合意形成。
利害調整。
条例理解。
制度設計。

そして何より、「地味な現実に耐える力」が必要だ。

漁業問題一つとってもそうである。

資源管理。
燃油高騰。
担い手不足。
加工流通。
販路開拓。
補助制度。

どれも単純ではない。

怒鳴れば解決する話ではない。

SNSで敵を作れば進む話でもない。

本来、地方政治とは「敵を倒す技術」ではなく、「地域を維持する技術」に近い。

だが現代は、「強く言い切る人」が評価されやすい。

すると、調整型政治家は「弱腰」に見え、対立型政治家は「行動力がある」ように見える。

ここに現代民主主義の大きな罠がある。

## なぜ炎上型政治家が支持されるのか

ではなぜ、人々は過激な政治家に惹かれるのか。

それは単純に「国民の民度が低いから」ではない。

むしろ背景には、既存政治への深い不信がある。

「どうせ何も変わらない。」

「誰がやっても同じ。」

「政治家は綺麗事しか言わない。」

「本音を言う人がいない。」

そうした閉塞感が積み重なると、人々は「壊してくれそうな人」に期待を抱き始める。

たとえ乱暴でも。

たとえ粗雑でも。

たとえ危うくても。

「今の空気を壊してくれるなら」という期待が生まれる。

つまり炎上型政治は、原因というより“症状”なのである。

既存政治が信頼を失った結果として現れる現象なのだ。

だから単純に、

「あいつらは下品だ。」

「レベルが低い。」

「排除しろ。」

だけでは問題は解決しない。

むしろ支持者は、

「既得権側が潰しに来た。」

「本音を言う人が消される。」

と感じ、さらに反発を強めることすらある。

民主主義の厄介なところは、否定したい相手ほど、実は社会の不満を映している場合があるという点だ。

## 「品位」はなぜ必要なのか

とはいえ、「何をやっても自由でいい」という話でもない。

地方議会には一定の品位が必要である。

なぜか。

それは議会が「住民同士の対話空間」だからだ。

議会とは、異なる立場の人間が、暴力ではなく言葉で問題を解決するための装置である。

もしそこが、

罵倒。
嘲笑。
人格攻撃。
デマ。
扇動。

だけになれば、熟議は崩壊する。

すると人々は、「話し合いでは解決できない」と感じ始める。

そして民主主義そのものへの信頼が壊れていく。

つまり品位とは、単なる「お上品さ」ではない。

民主主義を維持するための技術なのである。

感情的になりながらも、最終的にはルールに従う。

相手が嫌いでも、最低限の敬意は保つ。

事実と意見を分ける。

そうした姿勢が失われると、政治は単なる闘争空間へ変わる。

## 海外への発信という問題

現在は国内政治と国際社会が直結している。

地方議員の発言であっても、海外で翻訳される。

そして外国政府や海外メディアは、それを「日本社会の空気」として利用する。

特に中国やロシアなど、情報戦を重視する国家は、民主主義国家の混乱や分断を積極的に利用する傾向がある。

極端な発言。
差別的発言。
陰謀論。
政治的混乱。

これらは「民主主義は混乱している」という宣伝材料になる。

だから「国際的にどう見られるか」を気にする感覚自体は間違っていない。

ただし、ここでも注意が必要だ。

「海外に悪く見られるから発言を封じる」という発想は、場合によっては自己検閲へつながる。

民主主義国家は、本来「多様な意見が存在すること」自体を受け入れる制度だからだ。

つまり重要なのは、「問題発言が存在しないこと」ではない。

問題発言に対して、社会全体がどう応答するかである。

冷静な批判。
事実確認。
論理的反論。

そうした成熟した応答があるなら、むしろ民主主義の強さを示すことにもなる。

## 宮古市議会はどうあるべきか

では地方議会は何をすべきなのか。

ここで重要なのは、「特定個人を断罪すること」と、「議会として理念を示すこと」を分けて考えることだ。

もし宮古市議会が、

「特定政治家を許さない。」

「誰々を排除する。」

という形で動けば、それは政治的対立を激化させる可能性がある。

一方で、

「事実に基づく議論を重視する。」

「他者への敬意を忘れない。」

「民主主義における熟議を守る。」

「デマや扇動に与しない。」

という原則を確認することには、大きな意味がある。

それは特定人物への攻撃ではなく、「地方自治の文化」を守る行為だからだ。

地方議会は単なる政治バトルの舞台ではない。

地域社会そのものの縮図である。

議会の空気は、地域の空気になる。

もし議会が罵倒空間になれば、市民社会も荒れる。

逆に、意見が違っても対話を続ける文化があれば、地域全体の成熟につながる。

## 「強い言葉」では街は豊かにならない

結局のところ、地方自治で重要なのは「結果」である。

人口減少をどうするのか。

産業をどう支えるのか。

若者流出をどう止めるのか。

漁業をどう持続可能にするのか。

公共交通をどう維持するのか。

外国人労働者とどう共生するのか。

駅前をどう再生するのか。

これらはSNS映えしない。

だが、地域にとっては極めて重要だ。

そして本当に地域を支える政治家とは、派手な言葉を叫ぶ人ではなく、地味な課題に粘り強く向き合う人である。

怒鳴る能力ではなく、調整能力。

敵を作る能力ではなく、合意形成能力。

炎上力ではなく、持続力。

地方自治に必要なのは、そういう力だ。

## 民主主義は「不快さ」に耐える制度である

民主主義は綺麗な制度ではない。

嫌な言論も出てくる。

極端な人も現れる。

不快な発言もある。

だが、それを即座に排除し始めると、今度は「誰が排除を決めるのか」という問題が生まれる。

だから民主主義は面倒くさい。

効率も悪い。

時には腹立たしい。

しかし、その不自由さを抱えながら、「暴力ではなく言葉で解決する」という原則を守るための制度でもある。

地方議会もまた、その一部だ。

だからこそ必要なのは、「気に入らない相手を消すこと」ではなく、「どんな空気を地域社会に作るのか」を考えることだろう。

宮古市議会が本当に示すべきなのは、単なる怒りではない。

「地方自治とは何か。」
「議会とは何か。」
「民主主義とは何か。」

それを静かに、しかし粘り強く示していく姿勢なのではないだろうか。